感情も体力もMAXまで使い果たすその演技は役にすべてを捧げた女優魂を感じさせます。
2016年度のキネマ旬報ベストテンで新人女優賞を獲ったのもうなずけます。
一方で小松には観る者を惹きつける生来の妖艶さがあります。
夏芽が真っ赤なツバキを口にくわえてバイクのコウちゃんを見送るシーンでは、その美しさがいつまでも残像として焼きつきます。
このシーンだけではなくほぼ全カットが美しいと思わせる撮影も見事な映画でした。
そして2人の自由で豊かな演技を引き出した監督の演出力も見逃せません。
映画の大きな穴になった原作との違い
『溺れるナイフ』は原作ファンから一斉にブーイングされる映画になりました。
しかし後述もしますがその不満の多くは作品の内容ではなく漫画と映画のギャップに向けられたものなのです。
一方で原作ファンの言い分にも正しいものがあります。その最たるものが、コウと夏芽の結びつきが深く感じられるシーンがなかったことです。
転機となる強姦未遂事件の前、原作では2人は神の海で出会った全能感によって深く結びついていました。
しかし映画ではコウちゃんのツンデレ感が強く、2人の愛はずっと揺れている状態でした。
強姦未遂以降2人は別れますが、多くの人はそれ以前の彼らの愛が不確かだっただけに失恋の哀しみを実感できなかったはずです。
映画の中盤以降は愛の喪失がテーマなだけに前半の2人の愛の弱さは極めて大きくマイナスに響きます。
事件前にもっと大胆に強く彼らの結びつきを表現しておくべきだったでしょう。
脇役の弱さ
映画版のもう1つの欠点は、脇役の弱さにあります。夏芽はコウと別れた後、同級生の大友とつきあうようになります。
しかし大友があまりに田舎町の好青年、または野暮な庶民派なのです。コウと対照的な少年が描きたかったのでしょうが、これは行き過ぎです。
夏芽の友達として大友はいい味を出しますが、クールな彼女の恋の相手には全く合いません。
多様な魅力のあるコウのライバルとしても不釣合いです。また大友にはいわゆる「いい人」にありがちな欠点もあります。
夏芽がコウや仕事のことで落ち込んでいる時、彼は話をじっくり聞くこともなくただ無理やり元気づけようとします。
「いい人」とは大体、物事の明るい面ばかりに捕らわれて暗部を見ようとしません。
大友の他にコウに淡い思いを寄せる少女も出てきますが、最後まですべてを静観しているだけです。
この脇役2人がもっと魅力的でコウと夏芽の仲に食い込んでくれば、話はもっと面白くなったことでしょう。
原作と違う結末を徹底分析
原作を読んでいない鑑賞者の多くは、この映画の結末があまりに抽象的過ぎて分からなかったと感じたようです。
しかしよく考えれば、この不可解さには1つの明白な筋が隠されているのです。
コウが夏芽を守ったという妄想願望
原作を読んでいない多くの人はクライマックスに混乱させられたでしょう。それは虚実混交の構成だったからです。
何しろ夏芽の夢と現実、そして彼女の主演映画のシーンまでもが1つに交じり合っているのです。
しかし監督を始めとした作り手はただ鑑賞者を煙に巻きたかったというワケではないはずです。
この虚実混交のカオスの中には1つの道筋が見えます。
終盤、夏芽は東京に引っ越す前に部屋のベッドで寝転がり、コウのくれた数珠をながめます。
続くシーンで彼女はその数珠を見た後に、かつてコウと愛し合ったことのある神社の小屋の階段を上がってゆきます。