井筒和幸という監督は1952年生まれですからこの時代には16歳だったことになります。
まさにこの映画に描かれた時代を高校生として過ごしていますので実体験が随所に織り込まれているのです。
奈良県出身の監督が京都を舞台に選んだのは『鴨川』の存在が大きかったのではないでしょうか。
泳いで渡れる川幅で広い河川敷があり、朝鮮人居住区と日本人居住区が川によって分かれている立地条件が必要だったのです。
ラジオで歌った康介の心境とは
傷心のまま責任感だけでラジオ局に向かった康介。
出演を依頼したディレクターは康介の『イムジン河』に強い拘りを持っていました。
そのディレクターの熱意に押され借り物のギターで歌い始めた康介の心境はどんなものだったのでしょう。
康介は歌うつもりは無かった
気持ちの整理はつかないまま自分のやってきたことに対する虚しさだけが残っている康介。
そんな康介の前でプロデューサーと殴り合いの喧嘩を始めたディレクターを見て気づきます。
自分の行動の虚しさよりそれを受け入れることができない人たちの方がずっと虚しいのだと。
康介は歌うべきだと決心しました。
歌っている時の康介が考えていたこと
康介はラジオの生番組で歌いながら初めて歌詞を味わいます。
川に向かって分断された祖国を思うこの歌に康介は歌いながら感動したことでしょう。
そしてもっときちんと歴史を勉強しようと思ったかもしれません。
なぜディレクターはそこまで拘ったのか
ディレクターは解雇されることも覚悟の上で康介を歌わせました。
公園でキョンジャと康介、言い換えると朝鮮人の女子高生と日本人の高校生がセッションする姿に『あるべき姿』を見たのです。
その感動が彼を強く動かしたのだと考察します。
そして日本人高校生が歌うイムジン河の意義を世に伝えるべきだと思ったのでしょう。
彼は学生運動に参加し日本のあるべき姿や世界平和を真剣に考えていた経験があるのかもしれません。
生活のためにその過去を封印した自分を心のどこかで責めている人間の象徴が彼なのです。
アンソンやバンホーのその後
アンソンを演じた高岡蒼佑の喧嘩シーンは迫力がありましたし父親になった瞬間の晴れやかな笑顔も俊逸です。
電車では日本語で会話していますので帰国はしていませんしバンホーは朝鮮大学校の学生になっていましたね。
康介がラジオで歌った日、それぞれも何かを変えるために命がけで戦っていたのです。
歴史は変えようがありませんが未来は変えることができるということを井筒監督は伝えたかったのでしょう。